
住職ブログ
2025年9月16日
お彼岸に
弥陀の尊号となえつつ
信楽まことにうるひとは
憶念の心つねにして
仏恩報ずるおもいあり
これは浄土真宗を開いた親鸞聖人が作った歌のひとつです。和讃といいます。私はこの歌の中にある「憶念」という言葉が好きです。私が好きな理由を伝えるために漢字の源を遡ってみましょう。「憶」という字は神意を推し測ることを表し、言い換えるなら外からの呼びかけに従うといえます。次に「念」の上にある「今」は中のものを閉じ込める蓋を意味し、下の「心」とつながり、心中に深く思うことを表す漢字です。つまり、憶念は外からの呼びかけに対して私の心の底から深く応える姿といえるでしょう。私が好きなのはこの姿です。
この言葉を何度も重ねてしまうドラマを最近見ていました。その物語に出てくるおまじないは祖母から母へ、母から娘へと100年を通して受け継がれていきました。こんなおまじないです。
おいしゅうなれ おいしゅうなれ 小豆の声を聴けえ 時計に頼るな 目を離すな 何ゆうしてほしいか小豆が教えてくれる 食べる人の幸せそうな顔を思い浮かべえ おいしゅうなれ おいしゅうなれ おいしゅうなれ その気持ちが小豆に乗り移る うんとおいしゅうなってくれる 甘えあんこが出来上がる
このおまじないを受け継いだのはもう一人いました。祖母の兄です。彼はやさしいけど、ずるくて、人をおちょくるけど、とても臆病な人でした。戦争など時代に翻弄され、夢も半ば、家族を裏切り、逃げ続け、孤独になり、それでも人生を生き続けました。そんな彼がある場面で口ずさんでいたのが「おいしゅうなれ」でした。彼の祖父と父が大事にした和菓子屋はなくなり、彼の大切な人たちも亡くなってしまい、何もなくなってしまっても、この言葉だけが残った。彼にとって、この言葉は家族とその日々を深く思える宝物だったのでしょう。その姿を見ていると、この言葉は亡き方から兄への呼びかけと思えました。どんな人生を生きるとしても、「おいしゅうなれ」と彼の口を通して呼びかけている。「おいしゅうなれ」という呼びかけが兄を生かし続けていたのかもしれません。最後に兄は妹の娘家族の元で命を終えました。
私たちも数え切れない呼びかけのなかで生き続けています。そのほとんどが目に見えなく、耳に聞こえないもので受け取り損なっているのかもしれません。それでも、ひとつだけでも呼びかけに気づくことができたら、きっとぬくもりを感じる人生になる気がします。